姫路城を一望できる男山の中腹には「千姫天満宮」があります。本多忠刻との恋を成就させた家康の孫娘・千姫が、本多家の繁栄を願って建立した社です。いまも千姫が奉納した羽子板にあやかり、羽子板型の絵馬がたくさん奉納されています。
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ご祭神は誉田別命(ほむだわけのみこと=応神天皇)、比呼大神(ひめおおかみ)、息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと=神功皇后)で、1345年京都石清水八幡宮より勧進鎮座された。1469年に大改築の記録もあるが、1711年姫路城主榊原政邦が姫路城の守護神として新社殿を建立した。毎年2月18日から19日の厄神祭には終日祈願者でにぎわっている。
大和の長谷寺を模して姫山の地に創建されたといい、1572年に総社の西に移り長谷寺から不動院に改められたという。17世紀半ばに作成された絵図には、現姫路郵便局駐車場南辺に不動院がみえ、1870年に男山山麓の現在地に移転した。境内墓地の場所にはかつて東山焼の男山窯があった。また、18世紀から19世紀にかけての石燈籠や万霊塔等が残る。高野山真言宗の寺。
1822年姫路藩は姫路市内東山山麓の藩窯で東山焼の製造を始めたが、1831年頃、男山窯を築いて京焼風の藩用品として上質の品が製造された。姫路藩主酒井忠学候と将軍家斉の女喜代子姫とのご婚儀の際に調度品や諸侯への増進品を製造したことで名を馳せた。藩窯としての男山窯は19世紀半ばに終焉したとされるが、民窯として陶磁器の製造が1883年頃まで続けられた。東山焼の陶工であった池田弥七は藩窯終焉後、独立して弥七焜炉を製作し、西日本を中心に好評を博した。
この石仏群全体は西国三十三番観音曼荼羅のように見立てて、外側に十二天を配置したもの。石柱には寛政7年(1795年)とあり東山焼がこの地に来るまでに作られたものらしい。